死刑を望むということ

死刑というのはどうにもやるせない。

  1. 犯罪抑止
  2. 被害者関係者の感情
  3. 自分が被害者関係者の立場であったらという想像

ぼくはずっと長いこと「死刑に反対とは言えない」と考えていた人間で、死刑には反対であると言えるようになったのはこの4,5年のことです。死刑が犯罪を抑止するとか社会の安定を守るというのは核兵器を持てば安全が守られるというのと同じように怪しい話ですが、自分が仮に被害者側の立場で凶悪な事件にぶつかれば犯人の死刑を望むこともあるでしょうし、そうした想像に目を瞑って死刑に反対だというのは欺瞞であるという考えに憑かれていました。

えん罪の可能性や更正の可能性、人が法に則って人を殺すことの恐ろしさ、そして死刑が誰も救わないことを思えば死刑は在るべきではないと感じる一方で、被害者の立場を想像するにおいて死刑に反対できないと思ってしまうこと。ぼくの親しい人が凶悪な事件に巻き込まれて、さらに犯人と覚しき人間がかけらも反省していないように見えたら、その時はやはりぼくも死刑を望むでしょうし、たぶんえん罪とか更正とかそんなことにはほとんど引っかかりを感じなくなるでしょう。そういう想像は、昔よりは少し年をとった今もあまり変わりません。

でも、「(犯人を)殺せ」といつかぼくが言うとしたら、それはたぶんぼくが正気を失っているからで、正気を失うぐらいひどい思いをするのだから、えん罪とか死刑では誰も救われないとかそういうきれい事(それがどれだけ正しくても)に構っていられないのは当然です。だから被害者と親しい人たちが犯人に厳罰を望むのは分かります。世間が同情して、それを後押しするのも仕方がないのかもしれない。でも法が情に流され理性を失うとしたらそれは如何なものでしょうか。それが法でそれが裁判だとしたら、もはや裁判なんて必要なくみんな投票で決めてしまえばいいのです。しかし、いつか自分が人の死を望んでしまうかもしれないときに、誰も、法さえもそれを止めてくれないという想像は、恐ろしいというよりは何か哀しい気がします。