The Monkees / Head(映画)

恋の合言葉HEAD! [DVD]

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モンキーズの『Head』のレビューを書こうとしたのですが、映画とサントラをあわせて書くとややこしくなるので別々に書きます。まずは映画の話。ストーリーにも言及しているので見ていない方は読まない方が良いかもしれません。あと、書いている途中で時間がなくなったのでほとんど下書き状態です。いつか書き直したいと思います…)

『The Birds, The Bees & The Monkees』の発表とほぼ時を同じくしてモンキーズ長編映画「Head」の撮影に入ります。モンキーズはそれまでの音楽コメディに飽き飽きしており、30分間のテレビ番組では表現できないような、そしてそれまでのモンキーズのイメージを払拭できるような映画を作りたいと考えていました。当初は雇われ俳優の立場に不満を抱いていなかったデイヴィーやミッキーも、この頃にはミュージシャンとしての自我を持つようになっていたのです。

バート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはモンキーズの生みの親といっても過言ではない存在です。バート・シュナイダーは後に「イージー・ライダー」や「ファイブ・イージー・ピーセス」の総指揮を執った人物で、ボブ・ラフェルソンは「ファイブ・イージー・ピーセス」や「郵便配達は二度ベルを鳴らす」などを監督/製作した人物です。「ザ・モンキーズ」という斬新な番組のアイデアを出した二人は、「Head」でモンキーズのアイドルイメージを破壊しようと考えました。そうして彼らは友人のジャック・ニコルソンを連れてきて一緒に脚本を書くことにします。モンキーズも脚本のアイデアについて多少貢献したようですが、結局クレジットはされず、このことでいざこざがあったものの結局うやむやになりました。

映画は「Untitled」から「Changes」という変遷を経て、「Head」と名付けられます。ヘッドというのはドラッグのやり過ぎで頭にきてしまった人間を意味しています。

映画の主な目的はモンキーズの作り物のイメージを徹底的に破壊することにありました。女の子を見ては目に星を輝かせていたデイヴィーは反体制の象徴となり、お馬鹿なピーターは東洋思想に染まって禅問答を繰り返し、朗らかなリーダーだったマイクは何事にも斜に構えた態度を示し、陽気で饒舌なミッキーは不条理な世界への苛立ちと困惑を隠しません。テレビ番組で見られた権力とは無縁の仲良しモンキーズは跡形もなく消え去り、ここに新たなモンキーズのイメージが構築されます。

モンキーズのイメージを刷新するために彼らがとった方法は、モンキーズを反体制に位置づけることでした。モンキーズはそもそもレコード会社がオーディションによって作り上げた架空のバンドで、世間からは体制側であると考えられていました。当時はヒッピーが時代の中心となり、反戦運動とともに体制批判が強まり、ラブ&ピースの合言葉のもとに古い秩序や観念を打ち破ろうとする運動が激しさを増していました。彼らにとってレコード会社の意のままに動き、演奏も出来ないのに(と当時は考えられていた)売れているモンキーズは商業主義の象徴で忌むべきものでした。古今東西、若者は商業主義を嫌うのです。そんな中、モンキーズは自らを反体制に位置づけることで、劇的にそのイメージをぬぐい去ろうとしたのです。

セクシーな女性がメンバー一人一人と濃厚なキスを交わす冒頭のシーンは、ヒッピー思想との協調を高らかに宣言するものです。さらには戦場のシーン(アメフト選手)でヴェトナムに侵攻するアメリカを皮肉り、ライブのシーンでは誰も音楽を聴いていないんだろ、マネキンでも十分だろうとばかりにファンを冷ややかに見下ろし、砂漠で資本主義を象徴するコカコーラの自動販売機と格闘し、戦車でそれを破壊してニンマリします。アラブのハーレムで甘い時を過ごして見境のない愛というヒッピーの幻想に共感を示し、撮影はうんざりだと言ってのけます。工場のシーンでは機械化に潜む非人間性を描いて能率優先の機械文明を皮肉ったりもします。

もう一つ、「Head」を特徴づけるのは不条理と意味を求める困難さです。洞窟に突撃していったはずのモンキーズが実はステージに駆けていったとか、ヴェトナム戦争の悲惨な光景への悲鳴と思われたものが実はモンキーズに対する熱狂の歓声だったとか、自販機をぶちこわして浮かべたはずの笑みが実はハーレム甘やかな生活に対する満足の笑みだったとか、酒場の太ったおばさんに別れ話を切り出して殴られたと思ったら実はボクシングの試合で殴られていたのだとか、その酒場のおばさんが実はカツラをかぶった男だったとか、部屋の暗闇だと思ったらヴィクター・マチュアの黒々とした髪だったとか。とにかく意味を求めても、次の瞬間にはそれが否定されてしまいます。

暗示的な物事によりモンキーズのイメージは壊され、反抗するモンキーズの姿が刷り込まれていきますが、それは裏の目的であって「Head」の表向きの楽しさはある意味が次の瞬間にすぐさま否定されることにあります。不条理ですが、意味を求めることの無意味さを「Head」は徹底的に見せつけているのです。(なのでこういう風に解説するのもちょっと恥ずかしいのですが…解説とは意味を説明することですから)

メンバーの中でも、現状打破に苦闘するモンキーズを象徴するのはデイヴィーです。ボクシングのシーンなどを見れば分かるとおり、彼は常に虐げられ、それでも今のままではいたくないと立ち上がるモンキーズを象徴しています。酒場のシーンで、おばさんがデイヴィーに向かって「イメージを変えてみれば?」と語りかけるのも一つの伏線です。他のメンバーはどうかというと、マイクは敵も味方もなく、何事に対してもシニカルなねじれた存在。ピーターには「僕のイメージに傷が付く」という科白もあるように、現状に満足する旧来のモンキーズの姿が投影されています。「イメージに傷が付く」と語るピーターをデイヴィーが「最高だったよ」と励ますのですが、しかしそこから周囲の人々はピーターを避けるようになり、ピーターは雪道を独り歩いていきます。ここに体制から反体制への過渡期にあるモンキーズの厳しい状況が暗示されます。ミッキーは戸惑い、どちらつかずの状態です。

最後に追いつめられたモンキーズは橋から海に飛び込みます。しかしこのシーンは冒頭のシーンと同じで、モンキーズは自由になったのではなく、同じところをぐるぐるまわっているだけだということが暗示されます。さらに、海だと思って飛び込んだのは、実はただの小さな水槽で、モンキーズはそれに閉じこめられたまま運ばれてゆきエンディングを迎えます。今までの例に倣えば、海だと思ったら実は水槽だったという驚きが表の意味。そして暗示的な裏の意味は、モンキーズはいくら自由になろうとしてもなれないんだというもの。表の意味は基本的に観客に向けられ、裏の意味はモンキーズに向けられています。このようにして、表の部分で不条理さを味わうことで、裏に隠された、モンキーズの置かれた不条理な立場に共感できるようになっているのです。

さて、結果として映画の興行はうまくいきませんでした。奇をてらった宣伝はファン離れを加速させ、この手の映画を好む人たちもモンキーズの映画だからと見ようとはしませんでした。一説には「イージー・ライダー」を控えたバート・シュナイダーらがモンキーズ・プロジェクトを終わらせようとあえて奇抜な宣伝やモンキーズをあげつらう映画内容にしたのだという話もありますが、事実かどうかは分かりません。やがてカルト映画として再評価されるまで、この映画はろくな評価もされずに忘れ去られていったのです。