紅白セレクトを作る前に考えていたこと

自己満気味の長文なので、面倒くさい方は読まない方がよいのではないかと。ぼくもたぶん明日になったら書いたことを後悔しそうな気がします。


ぼくにとって「Jポップ」という言葉には肯定的な響きも否定的な響きもなくて、ただ日本のポピュラー音楽の総称として受け止めているのですが、実際のところそういう呼び方を好まない方もいるので、あまりそういう単語は使わなかったり、単語の前に「いわゆる」などという前置きをしたりして、どっちつかずの立場を取っています(いちばん卑怯かも…)。そういえば昔知り合いに「ソフトロック」という呼び方を好まない人がいて、その人に気を遣ってやはりぼくは「いわゆるソフトロック」という呼び方をしていたこともあります。今思うと、本当にどうでも良いことですが。

どうでも良いこと。でもどうでも良くないという人の気持ちも分からなくはないのです。たとえばソフトロックをそのまま例に挙げると、ぼくにはCurt Boettcherの一連のプロジェクトをソフトロックとする一方で、Edison Lighthouseが同じソフトロックとして語られることがよく分からない。違和感がある。それが良いところじゃないか、ハーモニーが美しいポピュラーミュージックの総称だろ、その柔軟性が「ソフトロック」の肝だろ…。そうなのです。でも、それが同時に「ソフトロック」の罪なのです。

言葉とは不思議なもので、ある音楽が「ソフトロック」と呼ばれ、それが一定の了解が得られると、その音楽はまぎれもない「ソフトロック」になってしまいます。もちろんソフトロックに限りませんが。The Crittersのアルバムを、フォークロックとして捉えて聴くのとソフトロックとして捉えて聴くのとでは、同じ音楽でも異なる響き方をするのです。いまいちだなと思っていたアルバムが、自分の好きな音楽ジャンルと関連付けて語られていて、それをきっかけに聴き直してみたら意外と良かったという経験はないでしょうか。ぼくにはあります。音楽はカテゴライズされて、それが意識された瞬間に、良くも悪くもいくらかは変容してしまうものだと思うのです。

その変容は、「聴き直してみたら意外と良かった」というようにいつも良い方に転ぶとは限らず、悪い方に作用することもあります。ぼくとEdison Lighthouse(White Plainsとかもそうかな)の関係はまさにその典型で、これはソフトロックとして聴いていなければ最初から好きになれたタイプの音楽なのですが、ソフトロックに変質してぼくの前に現れたEdison Lighthouseは控えめに言っても不格好というか違和感があり、聴き続けることができませんでした。最近ようやくEdison Lighthouseを良い感じで聴けるようになったのですが、それはぼくが昔ほど「ソフトロック」というものを気にしなくなった…言い換えればソフトロックの呪縛から放たれたからです。

そういう風にして音楽を変質させてしまうカテゴリ、カテゴライズというのは基本的に不愉快なものなのですが、反面利便性にも富んでいて、ぼくらは結局それに頼ってしまいます。カントリーやハードロックは相対的に見てその幅が狭く、変換効果が小さいので、カテゴライズの利便性の前ではさほど問題視されません。フォークやメタルというものはさらにジャンルが細分化されてゆくので、やはり音楽を変質させる度合いは小さくなり、これも利便性が優越します。ロックやポップというカテゴライズは、今度はあまりにも広大で漠然としすぎていて、これというイメージを浮かべづらいために、やはり音楽を変えてしまう力は弱く、これも利便性の前に跪きます。ニューウェーヴやポストロックなんていうのは非常に怠惰なカテゴライズなので問題外(怠惰の意味するところを取り違えられると困りますが…)。「ソフトロック」はなまじ柔軟性を持ったばかりに、負の側面が大きくなり、それは利便性を考えても無視できないほど大きく、結果として賛否が激しく対立するカテゴリーになったのです。ポイントは、具体的なイメージが喚起されなくてもだめ、されすぎてもだめというところでしょうか。

遠回りしすぎですが、それでなぜ「Jポップ」という呼称が好まれないかという問題です。ぼくにはこれがよく分からなかったのですが、しかし「Jポップ」という単語が音楽を画一化しているというのは確かで、そもそもニューミュージックじゃなんだか古くさいからと言うことで「Jポップ」という呼び方に変えたら(この理解は間違っているかもしれませんが…)それが妙に当たっちゃって、そういう時代でもあったのでしょうがミリオン連発。これがおそらく本来は「ロック」や「ポップ」のように人畜無害であった「Jポップ」を変えてしまったのかもしれません。そしてあらゆる音楽が「Jポップ」と呼ばれていく中で、実際にあらゆる音楽が、ラップもハードロックも歌謡曲もフォークも何もかもが本来の音を離れ、「Jポップ」に均質化されてリスナーの耳に届くようになりました。それでうまくいっていた頃は良かったのですが、ニューミュージックという言葉同様「Jポップ」という言葉にも耐用年数があり、その期限切れが迫っているために「Jポップ」に否定的な人も増えているのではないか、などと考えたりします。(昔からその言葉が嫌いだったという人は、その言葉が音楽に対してはたらきかける均質化作用が気にくわなかったのではないか、と考えることで最近納得できるようになったのですが、どうなのでしょう)

ちなみに現在チャートに入る音楽はほとんど「Jポップ」で、それらは本来そうであったというよりは、むしろチャートで上位に上がるにつれて「Jポップ」になっていったと思うのですが(そして上位の音楽は必然的に模倣されるので、結果的にJ-Popが氾濫します。あと、くるりなども、もはや「Jポップ」と呼んだところで、ぼくには違和感は感じられません)、そうした「Jポップ」への反発から最近のチャートはくだらない、リスナーの質も低いという意見も出てくるのですが、「Jポップ」による本来の音楽の変質を可能な限り避けつつ聴いてみると、チャートに入る音楽もなかなか面白いものが多いと思うのです。

みたいなことを考えていました。具体的にそれがセレクトの裏テーマになったわけではないのですが(裏テーマは別に存在します)、どこかしらそういう考えの影響を受けたセレクトになった気がします。