音羽信 『わすれがたみ』

わすれがたみ

わすれがたみ

音楽が、例えばリズムやメロディ、ハーモニーといったものからできあがっているとして、じゃあリズムが抜群の音楽がに素晴らしいのかというと必ずしもそうではないような気がします。それはメロディやハーモニーが優れている場合でも、あるいはそれらすべてが優れている場合でも同じで、音楽を聴いて「非の打ち所がないんだけど何かが足りない」とか「一般に評価が高いのは分かるけどどうにも好きになれない」とかいう少しねじれた感想を持つことがよくあります。

それではリズムやメロディよりも決定的なものは何なのかというと、それは「すきま」とでもいうようなものです。「すきま」というのはリズム、メロディ、ハーモニー(あるいは歌、楽器の演奏)などに縁取られた網の目のようなもので、音楽を聴いたときにぼくが抱く想いや情感といったものは、この「目」の部分を縫って広がっていくように思います。そして、聴き手が録音の質や時代背景について、どのような知識や想像力を持つかによって、その「目」の奥行きは変わってくるのではないかと思います。「すきま」を押しつぶすようにしてできた音楽は、聴き手の想い、想像の幅を限定してしまっていて、どんなに素敵なメロディであっても受け付けなかったり、すぐに飽きてしまったりします。(一方では、「考える前に体が動く」という音楽も存在します)

音羽信の『わすれがたみ』は1975年に発表された自主制作盤で、久保田麻琴が制作に関わっています。フォークではありますが、全体的に抑揚が抑えられ、一聴して暗い印象を受けます。ただし、暗いとはいってもそれは鬱々としたものではなく、例えば深海がイメージさせるような静けさの中にある暗さです。深海というのは、あるいは意識の底−無意識と言っても良いかもしれません。このアルバムを聴いていると、そうした深い底へと沈み込んでゆくような心地がします。

メロディが頭抜けて美しいわけでも、リズムに優れているわけでも、歌がうまいわけでもありません。(ただ、「君はまだ」のアレンジメントはそれだけで優れていると思いますが)録音環境も決して良いとは言えません。それでもこのアルバムは聴くほどに素晴らしい。それは、歌や楽器による編み目の中に限りなく想いが広がる余地があるからです。さらには、お世辞にも良いとは言えない録音環境もこのアルバムにおいては(というかこの手の自主フォークにおいては)聴き手の想いを増幅することに役立っています。音楽を聴いて、そこからプライヴェートな雰囲気というものを取り出す人と取り出せない人が当然存在するでしょうが(何を取り出して何を取り出せないかというのは、つまりその人の音楽の嗜好です)、プライヴェートな雰囲気を取り出す人にとってこの『わすれがたみ』はいっそう心地よく聴こえ、また限りない想いを抱きしめるはずです。