知覚と想起

去年死んだ犬を現在私は肉眼で見ることも手で撫でることもできないことは当り前です。しかし、その犬はその「生前の姿」でまざまざと「思い浮ぶ」のです。ここで、肉眼で見たり手で触れたりすることを「知覚」と呼び、一方「思い浮ぶ」ことをそれに対して「想起」と呼ぶならば、その生前の犬は「知覚的」にはもはや存在しませんが「想起的」には今なお存在しているのです。

大森荘蔵『新視覚新論』

過去をいかにして経験するかということを、大森荘蔵は一時期想起による立ち現われという点から理解しようとしていました。これと同じようなことは、「記憶について」(『流れとよどみ』)でも語られていますね。晩年の文章を読むと、大森は既に「想起的立ち現われ」を乗り越えているようで、「言語的制作」「言語的了解」といったアイデアによって過去を語ります。しかし、後者の方が時間や過去を語る上でより整合的なのだとは思いますが、ぼくは前者の考え方が腑に落ちます。

ぼくは死後も魂や意識といったものが残り続けるとは考えていないのですが、それでも他人が、死と共に完全に消えてしまうと思っているわけではありません。学生の頃に『流れとよどみ』を初めて読んだとき、「心について」という文章で亡友についての、「生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれる」という考え方がとても印象に残ったのを覚えています。そして想起的に存在するのは死んでしまった人ばかりではありません。ぼく自身今はもう少し違った考え方をしていますが、でもこの「想起的」な存在というのは未だに捨てきれずに引きずっているというか、今もまだ根本にあります。