生きるということ

途方に暮れて、人生論

途方に暮れて、人生論

少し前から新宿のジュンク堂保坂和志セレクションというコーナーが設けられていて、自著やお薦めの作品が並んでいるので一冊購入してきました。「気持ちが楽になる(帯に書いてある)」「人生論」というとなんだかうさんくさい感じがしますが、よくある人生論というよりはエッセイの形をとった小説という雰囲気でするする読めます。たとえば、あちこち見て回らなければならないような旅行を「労働じゃないか」(別のエッセイでは、行為に対して結果が求められるものは遊びではなく労働だというようなことが書かれています)、と言う感性が好きというか心地よいです。

人生とは自分が生きることではなくて、人によって生きられるものなのではないか。それも傑出したヒーローでなく、自分のような人によって生きられる。
 人が自分の代わりに生きてくれたり、自分に足りない分を人に託したり、あるいは自分はたまたま今の仕事をしていると感じたり、、、人生は不確定要素だらけで、主体性を持った強い意志で今の自分になったわけではなくて、家族や友達の影響や、東京からの距離や学校と繁華街と自分の家の位置関係や、何歳で東京オリンピックがあって何歳で大阪万博があって、何歳でロックと出会い……などなど、それらいろいろな力学の産物としてこうなった。

http://www.k-hosaka.com/nonbook/hri.html

こういう考え方にはすごく共感するのですが、それでもぼくは「人生とは自分が生きることである」といいたくなります(文脈を無視して切り取っているので、興味のある方はリンク先で全文が読めます)。「人が自分の代わりに生きてくれ」るというのは楽観的すぎるというか、そこには「代わり」などなくてただ「自分が(他の)人を生きる」だけなのではないでしょうか。人は誰かに出会うたびその人を生きはじめるのであって、そうして無数の人を生きるのが「私」というものなのだと思います。だから、たとえば亡くなった人について「私の心の中で生き続けている」といったりしますが、それは厳密には「私がその人を生き続ける」ということなのです。

誰かが亡くなったという報せを受けても実感が湧かないことがあります。家に行けばその人がふっと顔を出しそうな、あの何とも言えない感じ。誰かのことを想うとき「私」はその人を生きて、それはその人の生前も死後も変わらない。そのことと、二度とその人を知覚できないということの落差が、あの実感のない喪失感を生んでいるのではないかなどと考えたりします。

同じく保坂和志の『カンバセーション・ピース』という小説に、墓地の場所なんて「死んだらどこだって同じことだ」というような会話が交わされる場面があります。(保坂和志の文章の魅力の一つは、そういう何気ないフレーズから限りなく思考が広がっていくところにあって、そういうところにひっかかりを持てないと彼の文章はなかなか理解しづらいのではないかと思います。)墓地なんて死んだら本当にどこだって同じなんでしょうか。「死んだらここで眠りたい」というのは自分の人生の表明であると同時に死後に墓参するかもしれない誰かがよりよく「私」を生きてくれるようにという配慮であって、あるいは残された人たちが散骨のように「ここで眠らせてあげたい」と望んだりするのはそうした方がよりよく故人を生きられるからで、それは残された人の自己満足ではないという感じがします。墓参りというのも故人を偲ぶ以上に私が故人をよりよく生きるために重要で、だから、ぼくは信心深くもなく死後の世界も信じないたちですが、墓参り(と付近の散歩)にはよく行きます。

まったく『途方に暮れて、人生論』から外れた話ですがそういうことを考えていました。