稲垣足穂 / ライト兄弟に始まる

鳥のように自由になりたい、というのはぼくの好きな歌のフレーズにもあり、また昔から幾人もの友人知人がそう話すのを耳にしたこともあります。ぼくの感覚からすると、鳥も鳥なりに大変で必ずしも自由ではないように思うのですが、鳥が自由の象徴であるというのはそういうこととは無関係であって、つまり人を大地に縛り付ける重力というものから解放する飛行こそが、自由の象徴なのです。

飛行機の存在が当然のものとなり、また、その目的が、主に移動や輸送であったり時には戦争などの暴力であったりする現在となっては、人の飛行そのものに対する願望というのはすっかり薄れてしまったように思われます。しかし、たかだか100年ばかり前、ライト兄弟がはじめて人を乗せての動力飛行に成功した頃には、飛行は確かに人の大きな関心事でした。

ライト兄弟に始まる』は飛行を愛した稲垣足穂が、ライト兄弟を中心に、飛行機が生まれた時代に飛行にかけた人々の模様を描いた作品です。1900年に生まれた稲垣足穂が飛行を愛したのはおそらくそう特別なことではなく、また国を違えても飛行経験を自作に生かし、戦場での偵察飛行中に命を落としたサン・テグジュペリも同じ1900年生まれであるということもそう不思議なことではありません。『ライト兄弟に始まる』には稲垣足穂の飛行への憧れと豊富な知識が注ぎ込まれていますが、この伝記的作品が素晴らしいのは、目の前でみてきたかのように詳細かつ鮮やかに描く稲垣足穂の筆によって、空を飛ぶことが夢物語であった時代に、空を飛ぶことそのものに賭けた人々の情熱が生き生きと伝わってくるからなのです。

初期の飛行家の、郵便飛行だ爆撃だというような余分な目的を持たない純粋な飛行願望は本当に美しいもので、彼らが空を飛んだとき、彼らは本当に自由を感じていたはずです。今でも純粋に空を飛びたいと願い、実際に飛んでいる人たちがいるはずですが、しかしきっと、飛べるはずのない空を飛ぶことと当然に飛べる空を飛ぶこととの差は埋めようもなく大きいのです。そしてその差を少しでも埋められるとすれば、それはこの『ライト兄弟に始まる』のような作品なのだと思います。