脳死と臓器移植

15歳未満の子どもが脳死と判定されて、とうとう明日の朝には臓器移植を実施することになったようです。
踏み越えてはいけない一線をついに踏み越えるわけで、民主党の良し悪しは別としても、どうせ政権を取るのであれば、現行の臓器移植法に慎重な議員の多かった民主党があと数ヶ月早く政権をとっていたら、臓器移植法が拙速に改正(心情的には改悪ですが)されることもなかったのではないかと思うと、なんともやりきれない気分になります。

私は、脳死が真実の死であるということが科学的に裏付けられていないのだから、脳死者からの臓器移植は行えないというのが原則だと思っています。とは言っても、私自身は脳死となったときの臓器提供について、今のところ同意の意思表示をしたカードを持っています。それは、私が脳死を人の死であると考えているということではなく、脳死となったら臓器を提供するために自ら死を選ぶという意思表示をしているということです。だから、尊厳死安楽死と同じで、死を選択するという行為に対してまで自己決定権が及ぶのかどうかという問題があって、それを認めないという人もいるでしょうが、私は自由意志であると私が感じているところのものを信じているので、やはり自己決定できると信じてカードを持っているのです。

だから、私は改正前の臓器移植法には、意思確認の真実性の担保というような技術的な問題を除けば大きな抵抗感はなかったのですが、改正臓器移植法の何に抵抗を覚えるのかというとやはり行き着くところは自己決定権の問題で、その観点から言えば、脳死者について子どもからの臓器移植を認めたということと家族承諾のみでの移植を認めたということは、あまりにもまずい決定だったと思っています。子どもに自由な意思に基づく決定はできませんし、家族であっても他人なのだからその決定は自己決定にはなり得ないからです。

家族の承諾だけで脳死者からの臓器移植が行われる例が増えて、今回ついに子どもの移植例ができることとなります。今問題になっている原発が、ある頃から「そうは言っても原発無しじゃ今の電気を使う生活を維持できないじゃないか」と言って正当化されていったように、現在の臓器移植法もいずれ「そうは言ってもこの法律がないと今救えている命を救えなくなるじゃないか」というように正当化されていくのでしょうか。それでも、これで救える命があるとほっと一息ついている人たちには、一方で、たとえ救えない可能性が高い命でも、他人の意思によってその命を奪われていることに変わりはないのだということに、もう少し自覚的になってもらいたいものだと思います。人に残された時間の長短で、人の命の重さを量ることができるわけはないのですから。