The Pastels / Illumination

Illumination

Illumination

Amazonなどで注文したCDが、届くまでに時間がかかっている時ほど落ち着かない気分の時はありません。もう頭の中はこれから届くであろう音楽を聴きたいという気分に切り替わっているので、今さら全然違うタイプの音楽を聴き始めようかという気になりません。Amazonからの発送完了メールを待ちながら(さっき届いた)、やっぱりタワレコに買いに行けば良かったかなとも思いながら、落ち着かない気分で過ごしております。

The Pastelsの『Illumination』はそういう気分の時でも聴くことができる貴重なアルバム。空気のような、というのとは少し違いますが、「呼吸をするように」自然体で聴くことができるアルバムです。

自然体というのはなかなか難しくて、作り手の自然体は必ずしも、というかたいてい聴き手にとって自然体ではない。そもそも作り手の自然体って本当かという話は置いても、The Pastelsの初期の作品だって、自然体でやってるなあと思わせる部分はありますが、今のこういう気分の時に呼吸をするように聴けるかというとそうでもありません。初期の頃は本当にスティーヴン・パステルとその他という印象で、音楽的にも彼のヘタウマな歌とその他の演奏という雰囲気でしたが、このアルバムでは(あるいは前作あたりから)歌も演奏も良い意味でカドが取れて調和しています。

ティーヴン・パステルだって別にわざとヘタに歌っていたわけでもないのでしょうけど、初期の彼らの音楽を聴いていると、それでもこれが自分たちの音楽なんだという気負いを感じます。それが若さというものかもしれなくて、むしろそういう気負いのある方が良いと感じる気分の時もあるのですが、今はこういうゆるやかな音楽を、息をするようにゆったり聴きたい気分です。

円城塔『これはペンです』

これはペンです

これはペンです

この作品ではなく、次の「道化師の蝶」が芥川賞をとった時の選評で、半数近くの選考委員が「よく分からん。でももっともらしいことを書いている気がするから否定するのも憚られる。」「もっと分かりやすく書いてくれ」と評していて、それが円城塔とはいかなる作家であるのかということを見事に映し出しているようで、選評を読むたびにニヤニヤしてしまいます。

『これはペンです』は『道化師の蝶』よりは多少読みやすい作品です。表題作に加えて、おそらく表題作と繋がりのある世界について書かれた「良い夜を持っている」が同時に所収されていることによって、小説世界の全体像が見えやすくなっているということも、読みやすいと感じさせる一因かもしれません。個人的には、表題作を読んで、「良い夜を持っている」を読んでまた表題作に戻って読むということをもういいとなるまで延々と繰り返すと楽しいのではないかと思いますが、時間の関係上私は2回繰り返したところでひとまず本を閉じております。読みやすいとは言っても決して理解しやすい小説ではないですが(というか、「理解った」とあっさり言ってしまえるような小説があり得るのか、そんなものが小説であり得るのかという話もあります。)、私が面白いなと感じた部分をちょっと取り上げてみます。

  • 文体

叔父は文字だ。文字通り。

これは極端とはいえ、こういう飾り気がなく簡潔な、しかし意味を理解するためには一度立ち止まって考える必要のある文章が多く混ぜ込まれた文体に引きこまれます。リズムが良いというのでしょうか。何を書いているかはさっぱりだけど円城塔の小説は好きという人は、こういう文体の醸し出す雰囲気が好きなのかもしれません。村上春樹が翻訳調の文体というのであれば、ここでの円城塔機械的な文体といったところでしょうか。といっても機械翻訳的なぎこちなさではないですから、無機的であるという意味ですが。

  • 内容

「これはペンです」は、乱暴にまとめてしまえば、「もっともらしく見えるが実は無意味な文章の羅列にすぎない擬似論文(文章)の自動生成プログラムを開発した叔父とその姪」の話です。そして最後まで読めば、それが「もっともらしく見えるが実は無意味な文章の羅列にすぎない擬似論文(文章)の自動生成プログラムによって自動生成されたもっともらしく見えるが実は無意味な文章の羅列にすぎない擬似論文(文章)の自動生成プログラムを開発した叔父とその姪」の話なのではないかと考えさせられます。

メタフィクションとして、そのような再帰的な、あるいは自己言及的な文章をどこまで楽しめるかということは、この作品を、あるいは円城塔を楽しむ上で結構重要なのではないかと思います。

「これはペンです」の最初の方にソーカルについての言及があります。「擬似論文生成プログラム」によって書かれたという体裁の「これはペンです」の読者は、まるでソーカルの論文の査読者の立場にあるかのようです。いや、「これはペンです」に限らず、円城塔の小説の読者はいつもソーカルの論文の査読者のような困難に立ち会わないといけないのではないかと思えてきます。最初に書いた芥川賞円城塔に関する選評は、このソーカルに関する一連の出来事と重ねるとなお一層楽しめます。評価をしても地獄、批判をしても地獄というのは円城塔が仕掛けた巧妙な罠ではないか、と気楽な読者である私なんかは笑いを噛み殺しながら選考委員に同情してしまいます。円城塔の小説はソーカルの論文と同じだ。いや、論文と小説は一緒くたにはできない。いや、そもそもソーカル事件というのは皆が考えているほど大した事件ではなかったのでは、などなどこの部分だけでも色々な考えが頭を巡り、それがまた「これはペンです」の読み方に反映されていきます。

あるいは、この手前の姪(わたし)とその母のやりとりで

あんなにわけのわからないことばかり言い続けて、それでいっぱしの顔をしているらしいけれど、誰にもわからないことを言い続けて何の得があるものかね。世間様が面白がってくれている間は良いけれど、わけのわからないことになんてみんなが飽きてしまったら、あの子は何をどうして食べていく気か、わたしは本当に心配であるし、飽きてしまった

という母のコメントがありますが、この部分はこれに続く「わたし」の思いとあわせて、円城塔円城塔についての自己言及と読めて面白いです。この部分に限らず母のコメントはいちいち気が利いています。円城塔を評するときの高樹のぶ子氏はこの母を意識してわざとああいうコメントをしているのだったりして…。

このように個別の挿話についてはまだまだいくらでも思考が広がっていきますが、ここでは一旦これまでにします。

ところで、『これはペンです』を読みながら、以前円城塔がコンピュータ将棋についてコメントしていたような気がして、「これはペンです」はコンピュータ将棋から着想を得たのか、あるいはこのような考え方をする人だからコンピュータ将棋に関心があるのかどちらだろうと考えていたのですが、これを書きながら調べてみると円城塔がコンピュータ将棋についてコメントした履歴が見当たらないので単に私の記憶違いだったのかもしれません。しかしプログラムがもっともらしい擬似論文を生成することと、プログラムが人間らしい自然な棋譜を生成することは相似していますね。まだここに何か書くことができるほど考えがまとまっているわけではないですが、いつかそういうことについても思うことを書けたらと思います。

同時に所収されているのは「良い夜を持っている」で、「良い夜を待っている」ではありません。「wait for a good night」ではなくと書きかけて単に「have a good night」の直訳なのかと気づきましたが、よくよく表紙を見ると「これはペンです This Is A Pen」と書かれているので、そこからの類推でそれぐらい初めに気づいておけというところでしょうか。こういう機械的なタイトルも文章とマッチしていますね。

物理系/理数系出身の作家であると過剰なまでに強調されているようですが、円城塔は別に理数系の人のための作家でもなければ、物理や数学が理解できないと楽しめない小説を書く人でもありません。そういう評価をする人は、円城塔という作家を不当に、過小に評価していると言わざるを得ません。例えば村上春樹が音楽好きな人のための作家ではないのと同じように。だから自分は理数系が苦手だからと変な先入観を持たず、読んでみるとなかなか楽しめるかもしれません。

The Beach Boys / That's Why God Made The Radio

ゴッド・メイド・ザ・ラジオ~神の創りしラジオ

ゴッド・メイド・ザ・ラジオ~神の創りしラジオ

ビーチボーイズの久々の新作がようやく到着しました。私がビーチボーイズを聴き始めた頃(1996年)は、ちょうど『Stars and Stripes Vol. 1』が発売されたばかりで、その数年前には『Summer In Paradise』、さらにその数年前には『Still Crusin'』と、ブライアンが参加しているかどうかは別として、ビーチボーイズ名義のアルバムはコンスタントに発表されていたので、まさかそれから16年もアルバムが出ないとは想像もしていませんでした。(『Stars and Stripes Vol. 1』なんか中学生の私には渋すぎて、数回聴いただけで今の今までまったく聴き返していませんが、久々に聴いてみたい気分です。)

ビーチボーイズ名義のアルバムが出ると聞いた時の高揚感。ブライアンのソロアルバムも出るたびに期待しますが、ビーチボーイズ名義となるとまた違った楽しみがあります。バンド名義で出すからには、やはりブライアンばかりが目立つようなものではなく、バンドとしてそれぞれの個性が融け合うようなアルバムがいいなあと、実際に耳にするまでは楽しみ半分不安半分といったところでした。

そしてようやく届いたアルバムは、予想を上回る素晴らしいものでした。帰宅してからもう5回ほど通して聴いていますが、1曲目の「Think About The Days」から2曲目の「That's Why God Made The Radio」までの流れがまず最高です。ブライアンのソロ・アルバム『I Just Wasn't Made for These Times』の「Meant For You」から「This Whole World」への流れと並ぶぐらい完璧です。

そして3曲目の「Isn't It Time」。ブライアンの声と作曲能力はビーチボーイズにとってなくてはならないものですが、それと同じくらいマイク・ラヴの声はビーチボーイズというバンドにとって重要だと私は思うのですが、この曲でついにマイクの少し鼻にかかった声が聴かれます。1曲目と2曲目は、皆の声が「ハーモニー」として融け合っていましたが、この曲ではヴォーカルがブライアン、アル、マイク(ブルースもなんでしょうが、ブルースの声が分からない)と次々と入れ替わる形で、うまく一つのトラックの中に溶け合っています。個人的には、この曲がこのアルバムにおけるビーチボーイズとしてのベストトラックです。

私は昔からマイク・ラヴは嫌いではなかったりします。ブライアンの評価が高まっていく中で悪者にされがちなマイクですが、スタジオでもライブでも、マイクの茶目っ気と陽気さ(『Pet Sounds』のジャケット写真のマイクはすごく神経質そうですけどね。私はメンバーの区別がつかない頃に『Pet Sounds』のジャケを見て、しばらくの間マイクのことをブライアンだと思い込んでいました。)が、ブライアンの神経質な完璧主義や内向性とうまく引き合って、あれだけ素晴らしい初期から『Pet Sounds』までの音楽が生まれたのだと思っています。

ですので、「Daybreak Over The Ocean」という「Getcha Back」の焼き直しのような(もともとは「Getcha Back」より古いマイクのソロ録音ですが)曲は、おそらくビーチボーイズ・ファンの間でも評価がわかれるのではないかと思いますが、私はかなり歓迎です。マイクのソロ録音で言えば、この「Daybreak Over The Ocean(Daybreak)」や『Endless Harmony』にも収録された「Brian's Back」に代表される、ビーチボーイズのイメージを再生産するような曲は結構いい線いってるように思います。初期ビーチボーイズのフォロワーとしてのマイク・ラヴもかなり優秀という感じでしょうか。

そしてもう1曲、本当に素晴らしいトラックが「From There To Back Again」。メロディ、演奏、ハーモニーのすべてにおいて欠点が見当たりません。リード・ヴォーカルはアルだと思うのですが(違ってたらすみません)、凛とした美しさを漂わせていて、この曲にこの歌ありと思わせます。そういえば、昔からブライアンとアルの声が似ていてしばしば聴き分けられないことがありました。ブライアンの歌声は年齢を重ねるにしたがってより無垢なものへと変化していきましたが、ここでのアルの歌声に、違った形で年を重ねたブライアンの歌声を妄想して重ねてしまうところもあります。

最後の「Summer's Gone」はビーチボーイズのラストアルバムの締めくくりとすることを念頭にブライアンが書いていた曲です。共作者にジョン・ボン・ジョビが名を連ねているのがご愛嬌ですが、この辺りは(ボン・ジョビもジョー・トーマスと一緒に仕事をしているので)ブライアンのソロアルバム『Gettin' In Over My Head』のアウトテイクを流用したのではないかと勘ぐりたくなりますね。(実際はどうなのか知りませんが)

ビーチボーイズの久々のアルバムだから、褒める前提でこの感想を書いているというのではなく、本当にこのアルバムを聴かされると褒めるしかないというのが実際のところです。ビーチボーイズとして、今後まだ新作の契約があるかもしれないという話も耳にするので、そちらも楽しみにしつつ、まずは今年の夏のライブを全力で楽しみたいところです。

中上健次 『紀州 木の国・根の国物語』

紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)

紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)

先日、祖母が急遽入院したというので、会社を早退して空路和歌山へ戻りました。和歌山へ戻るために飛行機に乗ったのは学生の時以来、実に8年ぶりか9年ぶり。南紀白浜空港に降りて、そこから串本に向かいます。白浜から串本まで、日置、周参見見老津和深といった地域を通っていきます。この辺りの海岸線は枯木灘と呼ばれていて、中上健次がその名を冠した小説を書いていることでも有名です。

車に揺られながら、ふと中上健次の『紀州』を読み返したくなったのは、このルポタージュの冒頭のこんな一文を思い出したからでした。

ミワサキ、ウグイ、ナチ、テンマ、カツウラ、タイジ、見慣れた漢字を取り払い、音だけにすると、この半島の隠国、敗れて闇に沈んだ国の異貌がみえる。コザ、ヒメ、タコ、ワブカ、スサミ、アッソ、町の名はそう続く。何やらその地名の発音は、南島のもののようにみえるのである。

ルポタージュではありますが、個人的にはこの『紀州』は中上健次の代表作の一つであると思います。『岬』『枯木灘』などの中上健次作品は、彼の個人的な経験を小説の形で表現をした、いわゆる私小説と呼ばれる種類のものですが、事実をベースとしながら時折創作的に語られるという点で、『紀州』は『岬』や『枯木灘』といった作品の延長線上にあります。

陰→鬼→キ→気→木
もちろん半分遊びの類推であるが、その類推を不自然には感じさせないのが、紀州という土地であり、紀伊というところである。

このような、文字や音に対する過剰とも言えるこだわりは、中上健次の作品を読み解く上で非常に重要であるという気がします。それは、昔の人々が風雨や木々の揺れる音に精霊を感じ、あるいは疫病の背後に物の怪や悪霊を感じたのと共通するところがあります。そういう意味で、彼の作品は、「小説」という響きよりも「民話」「説話」あるいは「物語」と呼ばれたほうがそれらしいのです。この作品の副題に「物語」という言葉が含まれているのも、偶然ではありません。

前置きが長くなりましたが、この『紀州』は、差別と被差別をテーマとしたルポタージュとも読めますし、あるいは現代における紀州の民話として読むこともできます。というのも、例えば「古座」の編が町の関係者から事実ではない点が含まれるとの指摘を受け、後日「古座川」という編にて事実ではない部分があったと中上健次自身が認めている(実際には認めているというよりはもう少し複雑ですが)ように、彼の思い込みによって尾ひれがついているのではないかと思しき箇所が散見されますし、そういう意味では完全なるルポタージュではなく、どこか物語的であります。

紀州』は差別・被差別を主題としていますが、その是非ばかりを声高に主張するものではないので(もちろん、読めば分かりますが、それに対する問題意識は極めて強いのですが)、私もそのことについてここでは多く触れません。ただ、中上健次が繰り返した「皆はもう差別はないという。確かにそうかもしれない。しかし本当にそうだろうか」という趣旨の自問は、残念ながらこの地域では今も問われるべき状況にあるのかもしれません。私が子どもの頃に、学校の友人宅に遊びに行くと、なぜか彼の母親にひどく感謝されて、毎回帰るたびに「また来たってな、また来たってな」と過剰なほどの見送りを受けたことがあります。その友人の住む地域がいわゆる被差別部落と言われた地域であったということを知ったのはずっと年をとってからのことですが、ただ友人と遊ぶだけのことにそれだけ過剰な反応をされるというのは、やはりそれなりの理由があるのだと思いますし、結婚を申し込んだら相手の親に身元を確認されて、被差別部落出身であることを理由に破談になったというのが今現在の話として現実に聞かれるのがこの地域でもあります。

それはそれとして、もうひとつ、『紀州』を読んでいて面白いなと思ったのは、当たり前の話ではありますが、紀州とはいっても必ずしも一つに括れるようなものではないということです。紀州というのは今で言うところの和歌山県から三重県南部にあたる地域を言いますが、中上健次の作品世界に登場するような独特の地縁的共同体は、和歌山県南部から三重県にかけての、いわゆる「牟婁郡」と呼ばれる地域に見られるものだなと感じます。そのせいか、「田辺」「御坊」「和歌山」といった和歌山北部の編は、すこしこの作品の中でおさまりが悪いようにも感じます。何といいますか、白浜以北は方言や考え方が大阪の文化圏だなあと思わせるのに対して、白浜以南ではどこか孤立して閉鎖的な、小さな共同体の集積のように思われます。それは、幼少を白浜以南で、その後を白浜以北で過ごした個人的な経験に基づく実感にもあっているように思います。

以上が久々に『紀州』を読んだ感想です。さて、そんなこんなで串本に一泊をしてとんぼ返りで再び東京に戻ってきたのですが、幼少時代を過ごした串本の町も、帰るたびに活気が失われているような気がして、寂しくなります。格差社会とはよく言われますが、地域格差の問題も本当に深刻だなと感じた次第です。

串本から中上健次の故郷である新宮に向かう途中に太地という町があります。捕鯨問題でよくやり玉に挙げられる町なので、その話をすると「日本の文化の問題に他の国の人間が口出しをするのは許せないよね」と言ってくれる人がよくいます。しかし捕鯨の問題が文化の問題かというと私は少し疑問です(しかも文化と語る大半の人は鯨をまともに食べていない)。むしろ、捕鯨を文化の問題にすり替えることによって、事態が日本の外側の問題に矮小化されているような気がしてなりません。串本だけではなく、この周辺の地域は、林業などの衰退によって産業がどんどん弱っているのではないかと思いますが、そうした中で捕鯨も地元経済を支えるひとつの産業であるという視点で見てもらえると、現在こうした地域が抱える困難をもう少し理解してもらえるかもしれません。※私はというと、鯨はおいしいけれどイルカはえぐ味があって美味しくない。常食するものではないので絶滅するほど取るわけでもなければ、水銀汚染が問題になるほど食べるわけではないので現状程度の捕鯨は構わないじゃないかという考え方です。

取り留めもない感じになりましたが、盆と正月以外に和歌山に戻ったのは久々な気がするので、普段の町を見ることができて新鮮な気分になりました。

The Beach Boys / Thats Why God Made the Radio

THAT'S WHY GOD MADE THE R

THAT'S WHY GOD MADE THE R

発売まであと1か月となったビーチボーイズのニューアルバムですが、iTunesで購入できるようになっていた「Thats Why God Made the Radio」を待ちきれずに聴いてしまいました。全体的にはいつもの(ソロの)ブライアン節ですが、出だしは「Your Summer Dream」などを思い起こさせて逆に新鮮です。

でも、アルバムはこんなものじゃないですよね。「Thats Why God Made the Radio」は良い曲ですが、これだけだとブライアンのソロと何ら変わりないので。もっとマイク・ラヴのリード曲や、マイクとブライアンの掛け合いや、アル・ジャーディンのいぶし銀の歌を聴かせてくれるのだと信じて発売を楽しみに待ちます。夏のチケットも予約しましたしね!

裸のラリーズ

知り合いに頼まれて久々にTSUTAYAに行ったら、レンタルコーナーに裸のラリーズのアルバムが何枚も置いてあって驚きました。ラリーズといえばコレクターズCD(という名のブートレグ)の印象しかないですが、いつの間にかオフィシャル版(?)が出ていたのですね。

そうして、これはレンタルではなくまとめ買いをしようと思って家に帰って調べてみると、この1年ほどの間にボックス・セットを含めて30枚ぐらいCDが出ていてちょっとげんなりしました。や、やっぱり今度レンタルで借りてこようかな…。

「Enter The Mirror」(好きですけど)なんかの別ライブ・バージョンを何十も集めて聴くほど好きな訳ではありませんが、1970年頃に久保田麻琴と一緒にやっていた、アコースティックなラリーズ…特に「記憶は遠い」や「朝の光」はいつ聴いても本当に儚くて美しいと思います。

小沢健二コンサート

予想以上に濃い内容で、終わってからゆっくり夕飯をと考えていたら終わったのが22時で、結局コンビニで買ったサンドイッチが夕飯になりました…。ネタバレになるようなことは書きませんが

  • 18時半開演、22時終了。3時間半ですが、全然長く感じませんでした。
  • 思いもよらず最前列でした。3列目が最前列。
  • 新曲よかった。アルバム出して欲しい。

次回はいつになるのでしょうか。この調子ならまたすぐ(といっても2、3年後)にやってくれそうな気もしますし、また5、6年沈黙しそうな気もしますね。